2015年8月30日日曜日

さらばマーガリン

おつむは弱いが愛嬌があるマーガリン
「28日までに賃貸契約を済ませて、引越日を決めておけ。」家賃滞納3か月が経過したので、本来今月31日までに退去を済ませておく契約なのだが、まるで行動が伴わない次男K一家。売却の下見に来た不動産屋に「今のまま内覧してもらうと買手が…。ご主人の部屋のようならいいんですが…。」と、予想通りこのゴミ屋敷っぷりでは買手がつかない旨指摘されるに至って、2週間前「出来ていなければ、29、30日に俺が決めて契約させるぞ。」と強制執行にかかる旨宣告した。案の定28日になっても、ネットで2件ほどリストアップしただけで、不動産屋に行ったわけでも、物件を見たわけでもない。この行動力の無さと責任感の無さはさすが平成モノという感がある。29日朝から不動産屋へ連れて行く。あとは放っておいても不動産屋があれこれ引き回して契約につなげるだろう。背を押すどころか、首に縄をつけて引っ張らないと動かない。ほとんど犬だなと我が子ながらあきれる。

孫二人とは時々
会えばそれでよい
犬と言えば、先週21日夕から今週24日朝にかけて、次男Kの犬マーガリンも嫁Aの犬ココも放置したまま、何も言わずに出掛けたK一家。しょうがなく残された犬どもの食事・水・糞尿始末を3日に渡って面倒見る。「生きているんだぞ。それぞれ自分の犬は責任もって面倒見ろ。見れないなら里親探すなりしろ」と一喝。犬が2匹もいるとなかなか借りれる物件がないことにもようやく気付いたらしい。もともと愛着がなかったであろうマーガリンの里親を、Aがとっとと見つけてきた。ココだけ連れて引っ越すと言う。Kは不満らしいが行動力のなさを補う意味ではいいペアなのだろう。1日(火)に引き渡すがトリミングが条件。ところがその金がないらしい…。「餞別代りにトリミングしてやる」とRさんに連絡、今日30日を予約する。かわいいとか可哀そうだと言うばかりで面倒見ないKよりも、里親にもらってもらったほうがマーガリンも幸せだろう。

世話になったトリミング点の
看板犬ひよりとも今生の別れ
そんなこんなで棒にした土日。相模湾をキハダが跳ねながら待っているというのに…。とは言え、俺の引越には家の売却が必要で、売却には家のクリーニングが必要で、クリーニングするにはまずゴミ屋敷一家の引越が必要だ。年内に済ませるだろうか…。孫たちと別れるのは寂しいが、この一家を扶養するために俺のセカンドライフがあるわけではない。一緒に暮らしたいと言っていた上さんが一年しないうちに別々に暮らしたいと言いだしたのもわかる。生活習慣や価値観が違い過ぎて同居不能なのだ。14年4月には出ていく予定だったのに、惜しむらくは3か月をなぜ待てなかったのか…。あれから早1年半以上たった。人の言うことを聞かないから、仕事も生活も変えられないのに、子供だけ増やす。その行動力と責任感や危機感の欠如は、もはや大したものだと言うべきなのだろう。

2015年8月23日日曜日

夏はスルメ!

台風のうねりはあるが波は小さい
2015年8月23日(日) 長潮
はら丸 泊船長船 左舷トモ1番(左3、右2)
5:30出港、12:30納竿、13:30帰港
城ケ島西沖~南沖~長井沖~西沖
晴れ 北東の風7-10m 波1m

スルメイカ 22匹 胴長23-30cm

久しぶりの釣行。相模湾にキメジ・カツオやキハダが跳ねているのだが、今一喰いが悪いようだ。何かの拍子で食いが立ちそうなのでもう少し様子見。スルメもそんなに連れているわけではないのだが、好きなイカ釣りにした。初島沖で早くもヤリイカが釣れ始めているが、夏はやっぱりスルメだ。

沖干しも20枚並べると壮観
序盤、城ケ島西沖で1匹、南沖で1匹という具合でノリが悪い。今日はツ抜けできたらラッキーかと思った中盤、長井沖でノリのよい群れにあう。ポツポツ10匹にはなってやれやれ。晴れているが風があるのでそう暑いと感じない。ブシューとスルメの水鉄砲をかわすのが楽しい。良い陽気に沖干しの渇きもいい。夏はやっぱりこれだ。

終盤、また城ケ島西沖へ走る船長。これが正解でラスト1時間は入れノリ状態に。こういう時にトラブルはおきるものだ。ラインの70mほどの高切れで仕掛け一式が海の藻屑に。この日はラインが潜り込む潮回りで船底に何度となく擦っていたのが災いした。予備のリールに換装して再開したが、チャンスタイムに出遅れ感は否めない。まぁ、それでも20匹以上もあれば充分すぎる。船中5人で12、13、22、28、45匹に結果はこのところにしては上出来。何度も走らせた泊船長、お疲れ様。

シマノ BJSスルメイカ直結120+B + シマノ フォースマスター2000P PE3号
→ シマノ スペシャル1000 PE2号
ヨリトリリング 錘120号 18cm直結11本針→14cm直結8本針(高切れ)→18cm直結11本針

2015年8月22日土曜日

墓前にて

いつもより盛った仏花
左が上さん、右の小さいのが親父
持ち帰った親父の遺骨の納骨。
月命日の墓参り時よりも仏花にボリュームがほしい。花屋に向かうとまだ2か月だという姉さんだが綺麗に盛り付けてくれた。

朝から暑い。早めに霊園に向かう。花を盛り付けてから、納骨記帳して納骨料・彫刻料を支払う。骨壺を持っていくと、中央にあった上さんのを左に寄せて、新たに入る親父のを右にいれる。通常はそうするらしいが、係の石材店がわざわざ断るということは、こだわる人もいるのだろう。上さんの骨壺に比べて親父のそれは極端に小さい。土地柄なのだろう、妹によれば関西では砕いて小さくした上に、全ての骨を入れたわけではないという。
位牌がないが遺影で

位牌がないが遺影を飾り、ビールと好きだったウィスキーに供え物のお菓子。友からもらった高級線香を炊く。般若心経を唱える。わざわざ坊主を呼ばずとも今やスマホアプリがある。それに読経させて自分でも口ずさめば十分だ。
宗派混在だが俺流だ

親父は代々の浄土宗、俺は勝手に改宗して曹洞宗にしたから、墓誌に並んだ戒名も宗派混在だ。「二人で仲良く飲め」と結んで納骨式終了。「俺もいずれ行くからな」と話した後で、入れる人がいないかもな、と苦笑する。

子供らには一応日時を連絡しておいたが、いずれも不都合な時には姿を見せない。長男Tは不払い奨学金で、次男Kは不払い家賃と退去で、顔を見せずらいのだろう。もういい年なのだが、いったいいつになったら大人になることやら…。「お前の」「あんたの子だ」と墓の中の二人も笑っていようか。

2015年8月16日日曜日

納骨前に

親父の遺骨を抱えて、明石・神戸、池田・箕面、安土、関ヶ原、浜松を巡り、無事帰ってきた。

14日には石碑が彫れたと霊園から連絡があったので早速みてきた。問題なし。29日予約していた納骨を、22日に前倒す変更した。

15日は浅草へ。スカイツリーを眺めながら浅草寺を巡る。灯篭流しに上さんと親父の戒名を記して隅田川に流す。














旅行雑録 8月13日分 浜松城

8月9日~13日の旅行写真はFBに逐次Up。ここでは載せきれなかった写真を記録しておこう。

8月13日(火) 朝の内に浜松城を見て、帰路に着いた。

浜松城の野面積み城壁も当時のものが残り貴重だ。

本丸から二の丸跡を眺める。右が浜松市役所庁舎、左が元城小学校。

浜松からは2時間半で帰れる距離だが、眠くなるので休憩2回、それでも3時間半とかからず帰れた。ちょうど盆休み帰省下り渋滞を横目に上りは空いていた。作戦勝ち。

旅行雑録 8月12日分 関ヶ原

8月9日~13日の旅行写真はFBに逐次Up。ここでは載せきれなかった写真を記録しておこう。

8月12日(火)は岐阜県関ヶ原を初訪問。家康くんや三成くんと対話しながら点在する関ヶ原合戦の史跡を巡った。

三成くんも大垣城を出なけりゃ、家康くん得意の野戦に持ち込まれなかったろうに。

決戦地は三成くんの本陣の眼前だな。

 三成くんの本陣は関ヶ原が一望できる笹尾山(196m)。なるほどここから眺めるといかに家康くんといえども、登りくる敵を叩ける気がして勝てると思ったに違いない。

長篠の戦いを模倣したか、馬防柵も多重だ。惜しむらくは島左近くんの戦死だが、この男詳しいことはわかっていないらしい。

小西行長くんも奉行職に終始していればよかったものを。北天満山を背後に陣取りは西軍のほうが優位なのだが。

井伊隊の発砲で福島・宇喜多が開戦したのはすぐ近く。

島津義弘くんは、この合戦でもっとも名を上げた西軍武将だろう。包囲されてにっちもさっちもいかなくなった結果、家康くん本陣に切り込むと見せかけて目の前を通り抜け去ったのだから見事。執拗な追撃にもかかわらず薩摩に帰り着いた経路を、毎年青少年が鹿児島まで辿る旅をしているというのだから、頭が下がる。

 井伊・松平隊は先陣を良くしたが、福島正則くんだと言われて右往左往。

東首塚には首を洗ったという井戸も。

こちらは西首塚。古戦場に首塚はつきものだが、東西二つもあるのは関ヶ原ならでは、ではないか。

福島正則くんの陣には大杉が。400年前の当時にも存在していたらしい。こうした植物が語ることができればなぁ。
裏切りの松尾山。小早川秀秋くんの裏切りは有名だが、ここで言う裏切りは登山労力に対するリワードの少なさだ。292mの頂上まで通常40分かかるところを30分で汗水たらして登ったが、戦場が良く見渡せるという以外ほとんど見るべきものがなく、まさに裏切りの松尾山。本当にこんなところに15000人も布陣させたのだろうか?

大谷義継くんは秀秋くんの裏切りを予見していたも言われるが…。
義継くんの陣から見た秀秋くんの陣(左)。望遠で近くに見えるが、実際にはこんなに遠い(右)。一番上に見える山が松尾山。

宇喜多秀家くんは副将格で神社に本陣。

家康くんは一進一退の戦況に苛立ち、桃配山から三成陣まで数100Mの地に前進したが、鼓舞する効果はあまりなかったらしい。首検分の地ににはなったようだが。

夕刻浜松へ移動。焼鳥だいちでしこたま飲み食い。アレンジしてくれたIさんに感謝。

2015年8月14日金曜日

旅行雑録 8月11日分 安土城

8月9日~13日の旅行写真はFBに逐次Up。ここでは載せきれなかった写真を記録しておこう。

8月11日(火)は難波を出て滋賀県安土を初訪問。信長くんと対話しながら巡ると見応えある安土城址。


大手道を見上げる。これほど長い直線は珍しい。信長は天皇の行幸で使うつもりだったとか。普段使われていたのは総見寺側の参道だ。
 前田利家くんちの跡。秀吉くんちと向かい合う。ともに大手門入ってすぐ。つまり山の一番裾。
織田信澄くんちと森蘭丸くんちは本丸への黒金門のすぐ近くに。利家くんや秀吉くんよりも格がずっと上なのだ、このころは。
仏の足をかたどった石
この写真では、なぜこの山なのかわからない。眼前の田んぼは昭和になって埋め立てられたもので、当時は琵琶湖の一部だったと知るとわかる。
安土山は三方を琵琶湖水に囲まれたいわば安土島と呼ぶべき天然の要塞だったのだ。
天主跡から信長廟を見下ろす。
天主の周囲には本丸以外にも至る所に櫓などがあったようだが、調査は進んていない。
天主跡から本丸跡を見下ろす。本丸は京式の御殿をしつらえ、そこに天皇を迎えるつもりだったらしい。信長は天皇を見下ろすつもりだったのだ。少なくともそうと世間に知らしめるつもりだったのだろう。
総見寺が所有しているので、観光地としての整備は全く進んでいない。一方、それだけに石垣などは当時のものがそのままらしい。
信長廟。本能寺では骨が見つからなかったというから、何を埋めているのか。
一番右が織田信雄の墓。
 総見寺の山門を見下ろす。
山門にある仁王像。この道を通って、庶民は総見寺本殿にお参りした。その本尊は信長自身だったという。神になる、またはなったつもりだったのだ、信長は。

1992年のスペイン万博出展に向けて復元された天主閣の5-6階部分。原寸大なのと、釘を一本も使わず組まれている点が、すごい。