2015年4月19日日曜日

40年封印の記憶

5、6年前だったか、犬どもが傷めた和室を指さして、上さんが言った。「畳、おばあちゃんがくる前には張り替えてな」。おばあちゃんとは俺のお袋のことだ。「張替はする。けど、ばあさんは面倒みんでええやろ。これまで何の助けも受けとらん」。一緒になって25年超、貧乏でも悲しくても辛くても、援助は物理的、経済的、精神的に一切受けなかった俺の本音だ。「そうはいかん。いずれ元気なくなったら、ここで一緒に暮らすねん」。街で認知症や体調不良の人を見かけると放っておけない、情が深く性根のやさしい奴だった。アル中になって壊してしまっていたが、断酒して2、3年が経過し、徐々に本来の上さんを取り戻しつつあるのが俺には何より嬉しかった。「ばあばも身寄りがなくなったら、まとめて面倒見たったら。子供部屋を姥捨て部屋したらええやろ」と心配しているであろう上さんのお袋のことを気遣った。ばあばには救われてきたこともある。「そんなんあんたに頼める立場ちゃう…。でも、ほんまにええの?」と何度も確認しながら「ありがとう。おばあちゃんとばあばと一緒に暮らせたら…」と大泣きしていた。アル中の宿命で絶縁状態にあったお袋との関係修復も遠くなさそうだと当時は思っていた。

顔を逢わすのは15年ぶりだろうか。そのお袋が兵庫から遠路おもむろにやってきた。昨年上さんの通夜・葬儀にも来ず、弔電や香典を寄越すわけでもなかったお袋が。後に寄越した手紙には「あなたにも散々苦労をかけた挙句、しまいにはこれかい!という思い」とあり、死者を悼むどころか罵るものだった。悪妻に苦労させられ続けた息子もこれで解放されると考えているようだった。それでなくとも張り裂けそうな胸の痛みに加え、怒りを通り越した暗澹たる思いにさせられた。息子はいくつになっても誰よりも母を慕っていると考えるのが、世の母親というものなのだろう、と思い直した。返信には苦労させたのは俺で支えていたのが上さんである旨したためた。以来、従来と同様に、音信を取っていなかったのだが。

訪問前の電話では「今のうちに孫たちを見ておきたくて」と理由を話していたが、目的はそんなことではあるまい。16日(木)と17日(金)は取引先との会食もあり、いつも通りの深夜帰宅・早朝出勤でかまえない。19日(土)、次男夫婦・孫と併せ五人で朝から墓参り。レストランでとった遅い朝食中「葬儀にもこれなくてすまんかったな」と。それも言いたかったのだろう。ただし相変わらずプライド高い人だ。子や孫には聞かれたくはないのだろう、二人きりの一瞬だった。「かまわん。気にしてない」とそっけなく応じる。察したのか息苦しかったのか、午後には子や孫は連れだって外出。お袋はようやく本題二つを切り出した。

「父さんをあの墓に入れてやってほしい」。これは構わない。お袋が嫌がらなければそうしてやろうと考えていたことだ。「T(俺の妹)から、あんたが二回に分けて墓代送ったと言ってたと聞いたけど、私にはその覚えがないねん」。叔父(お袋の兄)の葬儀を思い出した。通夜後の飲食中、「お金送ったのに墓立てずに何に使ったん?」と上さんが聞き始めた。「こんな席でそんな話をするな」と怒り、話題を即座に打ち切ったお袋。場をわきまえずに聞くほうも聞くほうだが、相変わらず世間体ばかりを気にするほうもするほうだ、とあきれる俺。険悪な空気だったが、覚えていないらしい。二回目は俺自身で振り込んだが記録を探すのもばかばかしい。今更20年以上前の話をしても水掛け論になるだけなので黙殺。「親父を俺の墓に入れるのは構わん」とだけ応じる。

「もう一つな、会社に遠隔扶養の手続きして欲しいねん」。何を言っているのかしばらく理解できなかった。そんな手続きあったか。会社に何の関係があるのか。それして何になるのか。俺やお袋に何を意味するのか。と考えを巡らせてようやく思い至った。要するに生活の面倒をみてくれと言っているらしい。相変わらず遠回しな言い方だ。湾曲さに思わず舌打ちがでる。同時に胸の奥底に封印していたことが40年ぶりに堰を切ったかのように脳内を駆け巡った。そうだ、俺はこの人が嫌いだったんだ。幼少から厳しく躾けられた。それ自体は感謝すべきことだ。実際、良くも悪しくも俺の土台を形成している。小学生の頃は勉強もスポーツもした。成績も良かった。期待に応えた。だが褒められたことはなかった。ハグされた記憶がないことには最近気づいた。いつも至らぬを叱られるか、次の期待を課されるだけだった。優秀さを自慢げに近所に話す様に、そう育てたのよと鼻高々な様に、強い嫌悪感を持った。世間体と自尊心を満足させているだけに思えた。俺はその道具だ。中学では反抗してグレた。家を出たくて寮のある高校を選んだ。以来、頼らず世話にならずと決めて、戦ってきた。学生時代の経済的支援は、就職後10年かけて返した。就職後、支えてくれたのは上さんだ、お袋じゃあない。ありがたいこともあったはず、と思い起こす。出汁巻が旨かった。茶碗蒸しが旨かった。松葉ガニが旨かった。小学校でタバコを始めてもなじることなく諭した。暴走して補導された警察からの身元引取り時も黙ったままでいてくれた。裁判所でもそうだった。女性トラブルも知らぬところで解決してくれていたらしい。当時は「頼んじゃいねぇ」と嘯いていたが、さぞ心配させたことだろう。それでも、俺はこの人を好きではなかったんだ。そして、それは今でも。

今年に入って仕事が減り、年金だけでは生活できず、先行き不安になったらしい。幸いまだ元気で思考も言動もしっかりしている。激動の昭和10~20年代に成長期を過ごしたからだろう、この世代の人達は芯が強い。ばあばもそうだ。奈良で一人気丈に暮らしている。身寄りを次々亡くしたばあばの面倒を見てやる必要があるかと思案していた去年の話を妹から聞きつけて、なんで私でなく向こうなのかといぶかった節も伺える。こういうことははっきりさせておく必要がある。冒頭の上さんの話をする。「ばあさんとばあば、まとめて面倒見たろという話はあった。それはあいつがおってこその話だ。あいつを死なせてしまった今となっては、俺に面倒みる気力がそもそもない。会社を辞めるのもそう遠くないし、借金まみれで財力もない。早く一人きりになって自分を殺さんようにのんびり細々と生きていくだけや。ばあさんであれ、ばあばであれ、もはや扶養はできん。」

また5人で馴染みのもんじゃ焼き店での夕食。考えを聞けてすっきりしたのか、お袋は落胆する風でもない。次男Kが興味本位に俺の幼少期の様子を聞くものだから、お袋は楽しげに自慢話を披露する。聞いていられない俺は、孫娘や嫁と別の話題にする。日本酒をハイペースで重ねたが、まるで酔えない。寝ても夜中に目覚める。妙な緊張で今年一番くたびれた週末。釣りにも行けなかった。頭を渦巻く考えをこの記録に落として少しすっきりした。ともかく遠路来てくれたんだ。交通費は負担しよう。今日19日(日)新幹線駅まで送る。